氷河は元々、すごく気の利く子だ。
炎以外の誰かが落ち込んでいたらそうと気づかれないように陰でフォローするし、炎以外の誰かが無茶しそうだったらさり気なく止める。
その氷河に、面と向かって心配された。
これはなかなかに重症だろう。
図星を指された恥ずかしさと気まずさは、八つ当たりという反動で出た。
「え? 何? 落ち込んでるから買い物でも連れてってやろうって?」
急に剣呑になった雰囲気に、わずかに眉をしかめる氷河。
ああ、俺やっぱだいぶキてるわ。止まらん。
罵詈雑言は次々と溢れ出し、氷河の綺麗な耳を汚す。
頭の中の冷静な部分じゃ止めようと思っているはずなのに、言葉が止まらない。
氷河の白い顔がさらに蒼白くなっていくのをぼんやりとみてしまう。
かわいそうに……そんな言葉が浮かんだが、即座に打ち消した。
快感だった。
俺の言葉に傷ついている氷河に嬉しいんだ。
薄い氷に沈んだサファイアの如く、冷たく透き通った瞳が曇っていく。ぎゅっとサファイアが小さくなる。
目元が緊張し、肩が強ばる。
ポーカーフェイスをほとんど崩さない彼の表情を動かしている、それが快感なんだ。
だって、彼がこんな顔するなんて私の前だけだから。
近くにいたカップルが、こそこそと席を外すのが目の端で見える。怯えているようだ。自分は今そんなにひどい剣幕なのかな。
あまりの自分の性格の悪さに反吐が出そうなったころ、やっと言葉の奔流は止まった。
どんどん冷えていく頭に、少し荒くなった呼吸の音が耳障りだ。
「……落ち着いた?」
まだ表情を硬くしたまま、掠れた声で氷河が尋ねる。
理性が残っている内に、その場を離れた。
兄貴のために、俺は生きると決めた。
そんな想いは、気づけば胸を焦がす恋になっていた。
「ねえ、車出してくれるでしょ??」
上目遣いと乳アピール。
ちょっと恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、「よく発育したねえ」なんておっさんかあんたは。
まあそんなおっさん発言も照れ故だって分かってるから許したげよう。
兄貴は、俺のワガママを怒らない。怒るという意識なんて、一切ないみたいだ。
困るか快諾するか無理矢理やってくれようとするか、この3つのどれかだ。
それを分かってて、ワガママ言って構ってもらってるのだけど……。
「雷、大地困ってるんじゃないか」
ひんやりとした声が俺の思考を冷ます。
「氷河、困ってはないよ、ありがとう」
わずかに苦笑を浮かべた兄貴は、そのまま俺の方をみた。
「でもごめんな。今日は零が来るから……」
ぴしり。
冗談抜きで俺の意識は固まった。
零。
零。
最近この半陰陽のせいで兄貴が俺に構わなくなった。
理由は痛いほど分かってる。
兄貴が、零に恋をしたからだ。恋をするものが持つ熱い瞳になったことはすぐに気づいた。
俺は愕然とした。
元々淡泊な人だから、俺の想いも気がつかないのだろうと粘ってきたのに、ある日を境に兄貴の瞳は零に吸い寄せられた。
片思いでもつらいのに、もっと最悪な事が起こっているのだ。
「ごめんください」
玄関から、氷河に負けず劣らず温度のない声が聞こえる。
ぱっと兄貴の目が輝いた。
今にも尻尾を振りそうな勢いで立ち上がると同時に、氷河に先導された(イヤになるほど気が利く弟だこと)零が姿を見せた。
漆黒の髪に黒曜石の瞳。真っ白な肌に鮮やかなターコイズ色のセーターが映える。
黒いデニムのミニスカートが何かやらしく見えそうなのに、本人にあまり色気がないせいか嫌味なくらい似合っている。
「いらっしゃい」
「お待たせしました」
「ううん、別に待ってないよ」
そんなとろけそうな笑顔を見せないで。
そんな熱っぽい視線を向けないで。
悲鳴は胸に押し込められたまま、涙は笑顔の仮面で綺麗に見えなくなる。
ま、お二人はそんな俺には気がつかないだろう。
普段はあまり感情を灯さない零の瞳が、少し潤んでいるように見えるのは気のせいじゃない。
そう。最悪な事態だ。
二人は思い合っているのだ。
まだ決定的な事にはなっていないが、遅かれ早かれそうなるであろうことは明らか。
そのまま談笑を始めちゃったものだから、俺は宙ぶらりんなまま放っておかれることになる。
まるで仲間はずれにされた小学生みたいだ。
胸がぎゅっと誰かに掴まれてるみたい。
どうしよう、部屋から出て行きたいかも。でも出て行けない。兄貴を見ていたい。兄貴の側から離れたくない。
たとえそれが自分を傷つけるとしても。
どうしようもなくて立ち尽くす俺を、透明な声が引き戻した。
「雷、買い物行くけど何かいる? それか一緒に行く?」
氷河が鍵をちゃらちゃら言わせながら、扉のところでこちらを見ている。
「ええー……だってチャリだろ?」
「人の愛車を馬鹿にするなんて最低だ」
ぷくっとほっぺたを膨らませた顔が可愛くて、思わず笑ってしまう。
「じゃあ俺が運転してやるよ」
鍵を奪おうとすると、さっと隠された。
「いやだ。雷の運転めちゃくちゃ荒い」
んべ、と子どものように舌を出し駆け出す氷河。
氷河を追いかけるそのどさくさに部屋を飛び出し、後ろを見ずに扉を閉めた。
その後もずっと、思い出さなかった。
「腹減った」
不意に真面目な顔をして何を言うかと思ったらこの言葉。
さっきまでふたりでやいのやいの言いながら秋物を選んでいたのだが、荷物を抱えて店を出るとふっと会話が途切れたのだ。
着せ替え人形よろしくとっかえひっかえ服を着替えたから疲れたのかと顔を覗き込むと、思いの外深刻な瞳とかち合った。
そんな氷河の顔を見たことなかったものだから、思わず息を呑むと我に返ったように顔を上げ、再び少し深刻な顔になり上記発言。
し、心配して損した。
「マクド? それともちゃんと食う?」
「テリヤキ食いたい」
「あれ、チキンタツタじゃねえの?」
「飽きた」
何だかんだいいながらフードコートに移動し、人心地着く。
ごそごそ紙袋と格闘していると、空いていたのかあっさりと氷河がトレイを持って帰ってきた。
「はい」
「ありがと」
周りは高校生のカップルや親子連ればかり。
俺たちももしかしたらカップルに見えてるのかも。
なんて思ってしまうのは、今更になってやっと兄貴達の事を思い出したからだ。
残酷なくらい絵になる二人。
そこに俺の入る余地はない。
否、きっと、俺がワガママ言って擦り寄って、行かないでって泣いて喚けば形だけでも繋ぎ止められる。
兄貴は、優しいから。
零は、そんな兄貴が好きだから。
二人ともオトナだから。
でもそれはきっと仮初めのものなんだろう。それじゃただの肯んぜない子どもだ。兄貴の心は捉えられない。
ああ、でもそれでもいいかもしれない。それで致命傷を逃れられるのならば。
「雷、何かあった?」
心配そうな顔が思いの外近くにあり、思わず身を引いた。
すでに氷河はハンバーガーを食べ終わっており、コーラとポテトをだらだら摘んでいる。
「あ……ごめん」
それ以外になんと言えばいいのか。
俺の手元には、ほとんど減っていないビックマックが。やばい。ぼんやりしすぎた。
人が反省してる間に、氷河の顔がひょいっと近づいてくる。
息がかかりそうなほど近くに来た整った綺麗な顔に、思わず心臓が跳ね上がった。
睫毛長いなぁとか、瞳の虹彩に混じる複雑な青色から目が離せない。
跳ね上がった心臓が更に弾け出す。
が、そんな人の内臓事情は知らず、綺麗な顔がふいに下降したかと思うと胸の前あたりで握っていたビックマックが3分の1ほど削られた。
怒ろうと息を吸い込んだ瞬間、伏し目がちに顔を上げた氷河がにやりと笑った。
「ゴチソウサマ」
口の端に付着したケチャップを指先で拭い、それを舐め取る赤い舌に息が詰まった。
身体は女だけど思考は男に近い。というかぶっちゃけ、性的な方面では特に男に近くなる。
うわーやべー超色っぺー。ってかなんだよゴチソウサマって。ちょっとクるじゃねぇか。
などと自分の弟(厳密には血は繋がってないが)を見て思ってしまった。なんかごめん。
「テメェこの野郎人が反省してるスキに!」
なんて小突きながらも、ちょっとどきどきしてしまった。
「だって雷、何か悩んでるみたいだったから」
小突かれた勢いでちょっとくすぐったそうに目元を緩めながら、目の光り方だけは妙に真剣になった。
夕日に染まる空を背景に佇む小さな神社。
町の人すらその存在をうっかり忘れがちなほどこぢんまりとした神社だが、なかなかに立派な白狐の像が入り口を守っている。
くすくす。
羽をこするような密やかな笑い声が、誰もいない神社に響く。
「今夜もお祭りだね」
「今夜もお祭りだな」
「美味しい物食べられるといいね」
「美味しい物食べられるといいな」
そして俺はそんなのをうっかり目撃してしまったわけだが。
冷や汗をだらだら流しながら固まっていると、ふとそいつらが目を上げた。
ばちっと目が合う。
「おや、お客様だね」
「おや、お客様だな」
「何を怯えているんだい?」
「何に怯えているんだい?」
「それにしても君は美味しそうな色をしているね」
「それにしても君は美味しそうな色をしているな」
「ちょっと舐めてもいいかい?」
「ちょっと囓ってもいいかい?」
嗜虐的な笑顔を浮かべながら、長い舌をちろちろ伸ばす、ヤツら。
綺麗な真っ白の毛皮から覗く赤が凶悪すぎて卒倒しそうになる。
冗談ではなく、足下が歪んだ。ような気がした。
「ふふ、冗談だよ」
「はは、冗談だよ」
「ほんの悪戯だよ?」
「ほんのちょっと本気だけどね?」
今区別がついた。性格悪い方が首に青い玉をかけていて、まだマシな方が赤い首かけを巻いている。
「あ、あの、」
冷や汗を振り払い、必死で言葉を探す。
二対の金褐色の瞳に見据えられ、言葉がのどから出てこなくなる。
「はて、虐めすぎたか」
「ひどい奴よのう、お主は」
「主に言われとうないわ」
「主に言われとうないわ」
「あの!」
放っとくといつまでも続きそうな漫才に痺れを切らし、大きな声が出た。
「大地兄!」
鋭い氷河の声が警笛のように耳に飛び込んできた。
次の瞬間、目の前に氷の壁が出現する。
ひやりとした空気を感じる間もなく、その壁の後ろから全力で飛び出し目の前の白衣を着た研究者を打ち据えた。
あっけなく気を失って倒れた研究者を目の端で捉えつつ、ぐるっと周りを見渡すと壁際に追い詰められた緑と、研究者の投げた火炎瓶が氷の壁にぶつかって落ちるのが見えた。
割れた火炎瓶の火が絨毯に着火するかと思ったが、ふ、と火は何事もなかったかのように消え去る。にんまり笑う炎ににっこり笑いかけ、絨毯に手を付く。いつもはふわふわしている絨毯が今日は大勢に蹂躙されぺしゃんこだ。
「緑!」
叫ぶと同時に、まっすぐ緑に向かって亀裂の入る絨毯。
緑を追い詰めていた研究者が必死の形相で逃げ出す。その隙に緑は高らかに舞い上がり難を逃れた。
「ありがとう!」
鈴や風鈴を思わせる凛とした声を右頬に受け止めながら、肉薄してくる研究者を真正面から蹴り飛ばす。
さっきの亀裂に引っかかり無様に転がるのを見て、炎が声を上げて笑った。
「ちょっとぉ! 僕も引っかかるかもしれないから、あんまり罠張らないでよ-!?」
炎の軽口を聞き流しつつ、氷河の隣に並ぶ。
ずっと気になっているのだが、顔色が悪い。すでに肩で息をしているし、前髪の生え際にあるふわふわした産毛に汗が光っている。
「氷河は後方へ」
低く言い放つと、弾かれたように氷河が顔を上げた。
目に怒気が瞬いている。
それでも口をぎゅっと結んで何も言わないのは、自分の状況が分かっているからだろう。聡い子だ。
短く息を吐くと、スッと後ろに下がる。
それを待ちかねていたように、前方の扉が音を立てて開き、良く見知った人物が姿を現した。
「……グロウ」
炎の呻くような低い呟きに、緑の小さな悲鳴が重なる。
「何でグロウが……!」
彼は全く感情を見せないまま、無表情に構えた。
「気づかないテメェが悪ぃんだろうが」
朝っぱらから剣呑な雰囲気になっているのは、我が家の紅白コンビだ。
毎日毎日毎日毎日飽きもせず、何かと些細な原因を見つけてはちょこちょこ小競り合いが勃発している。
むしろ趣味の範囲なんじゃないのか。放っておいた方がいいんじゃないのか。
そういう達観は、自分の飲もうとしていた湯気の立っていたはずの珈琲がかちんこちんに凍っていたり、逆にマグマの如く煮えたぎっていたり、新聞が発火したり、釘が打てそうな硬さになっていたり、飼っている金魚のめーちゃんが死にそうな顔でこっちに水の温度をアピール(もちろん煮魚や氷になることを恐れてだ)してくる事によってぶち壊される。
「二人とも」
声をかけると一瞬こちらを見る碧、気づかない赤。
ぴりぴりした空気は相変わらずだが、常に冷静な氷河が若干気後れした。
そしてこちらに気づかないくらいヒートアップしている炎が、それを見逃すはずない。
「いちいち起こしにくんなっていっつも言ってるでしょ? 何でわざわざ毎朝繰り返すの? 嫌がらせ?」
氷河の理性にヒビが入った音が聞こえた。気がした。
「減らず口くらいしか叩けないのかお前は」
絶対零度の視線と声の温度で言い放つ。
「氷河、炎」
今度は名指しで。
「大地兄は口出さないで」
怖。
名の通り、烈しい瞳で押し返された。
どうしてこの子はこんなに喧嘩っ早いのかね。
そんな事言ったら怖い人が来るのに。
「誰に対して物言ってんだ?」
すぐさま、確実に怒気を含んだ声が頭上から響いた。
まっ金金としか言いようのない派手な金髪に、金褐色の瞳。
「雷!」
「暑苦しいんだよ毎朝毎朝。ぎゃーぎゃー噛み付くしか脳がねぇんならせめて自力で起きろアホ」
たるそうに紫煙を漂わせる(室内禁煙だって約束したはずだが)雷は、面倒くさそうに手すりを飛び越え、炎の目の前に華麗に着地した。
「で、どの口かな? 敬愛するお兄様に命令したのは」
笑ってない。目が笑ってない。
スパークする火花が見える。
氷河は早くも逃走の準備を整え、速やかに舞台からフェードアウトしている。
「言葉の綾です」
直立不動の姿勢のまま、雷から微妙に視線を逸らした炎が目で必死で謝罪してくる。
“ごめんなさい助けてください!!”
しょうがない。
「はいはい、雷ありがとう。俺はあんまり気にしてないからその物騒な目つきをやめようねー」
「だってぇ……」
雷は迫力美人なのだが、服の趣味はロックだ。
今もぴったりとした革のジャケットから、豊満な胸がこぼれそうに……いかん、視線がおっさんだ。
そんな美人に上目遣いされて甘くならない男がいるだろうか。いや、いない!
というわけで雷に甘い俺は悪くない。自己弁護終わり!
「兄貴ぃ今日はどっか行かないの-?」
ソファの背もたれにくっついた雷が甘えた声を出す。
「ん? どこ行きたい?」
「んー、そろそろ秋物が出る頃だからブーツみたいなぁ。こないだギンガムチェックのミニスカ買ったんだ。それに合うの探したいの」
すんなりした脚を包む乗馬ブーツ、真っ白い太もも、くすんだ赤色のギンガムチェックのプリーツスカート=絶対領域!!
「よし行こうすぐ行こうどこに行こう」
「わあーい!」
きゃっきゃしてる兄姉を見て毒気を抜かれたのか、学生二人はやっと椅子に座り食事を取りだした。
険悪なムードは相変わらずだが、氷河がたまにちらちらとこちらの様子を伺ってくるのが可愛い。
「ねー兄貴ー車出してくれるー?」
ソファで珈琲を飲みながらだらだらする年長組。
ぴりぴりした空気のまま、朝食中の弟組。
なんだか異様な光景だが、基本的にいつもこんな感じなので誰も気にしない。