また体調を崩した。
無駄な体力使うの禁止令を出され、1週間。暇だ。
今日は兄弟達は何かと用事があるらしく、家に俺ともう一人だけ残された。
いっそ一人が気楽だった……。
「おにーちゃん!」
手を振り、緑の髪の毛をふわふわ靡かせながら笑う。
妹のそんな仕草に僅かに頬を緩ませる。怖い顔になってしまっていないだろうか?
「どうした、緑」
問いかけると、目の前にひんやりとしたものが差し出された。
これは……
「アイス?」
「そう、おにーちゃん暑そうだから」
確かに、体温が限りなく低い俺には最近の温度はしんどい。
「ありがとう」
気遣いが嬉しくて、うまく笑えない自分に腹が立つ。
最近知ったこの歳の離れた妹を、大事に思っているのだけど何故かうまく接することができない。
炎や雷は楽しそうにやっているのだけど。
その度に、ちょっと凹んでいた。
緑も陰からこちらを伺うような感じであまり近づいてこなかったのだが。
今日は機嫌でもいいのだろうか。
そんなことをつらつら考えながら、二人でソファに座って貰ったアイスを舐める。
さっきまで自分の部屋で何かやっていたようだが、何を思って急に。
まあ、ソーダ味の、アイスというか、所謂アイスキャンディーは久しぶりでそれなりに嬉しかった。
嬉しいのだけど、甘い物は得意じゃないのでどうしてもちまちま舐める感じになってしまう。
ふと気付くと、緑がこちらをじっと見ている。
甘い物が好きな年頃なだけあって、ぺろりと食べ終えてしまった。
退屈させたか、まずそうに食べてると思われたか。
年頃の娘を持った父親はきっと常にこのような緊張感を強いられているのだろう。世のお父さん方に敬意。
「ああ、ええと」
何か言おうとしたが、それより早く緑遮られた。
「おにいちゃん、ゆっくり食べ過ぎて垂れちゃってるよ」
ちまちま食べていたせいか、淡いブルーのしずくが肘にまでつたってきている。
普段なら溶けない様に調整しながら食べているのだが、今日は使えないことをすっかり忘れていた。
慌てて拭く物を探そうとした途端。
「……っ! 緑っ」
思わず大きな声が出てしまった。
ああ、緑が弾かれたようにこちらを見る。
「なあに?」
無垢に首を傾げる姿に知らず頬が熱くなる。
「そんなもの舐めちゃいけません」
指に滴るしずくを、その、緑が、舐め……。
ぬるりと白い指を這う赤い舌に、どきりとしてしまった。
自分より5つも下の妹に……最悪だ。
「じゃあどこならいいの?」
テンパりすぎて気付いていなかった。
緑の瞳に潜む、暗い色に。
「緑っ 何して……っ!」
膝に緑のほっそりした身体が乗り上げ、身体が硬直する。
無意識に、垂れるアイスからソファを守ろうと左手を上に上げる。肘を伝う冷たさも、頭をクールダウンさせてくれない。
右手を柔らかくソファに押しつけられ、完全に身動きが取れなくなる。
いや、冷静に考えればアイスを放り投げれば左手が空くのだが、判断力が著しく低下した頭ではそこまで考えられなかった。
鎖骨のあたりに柔らかい髪が触れ、ますます焦る。
肘の先からぽたぽたと水色のしずくが垂れる。
濡れた腕に触れる、赤い舌。
猫が舐めるように指から手首、肘へと下が這う。
そして。
「……っ! やめなさい!」
呪縛が解けたように、緑の腕を振り払う。
ズボンのチャックにかかっていた手は行き場を失い、力なく本人の身体の前に。
「どうして?」
「どうしてって……お前今何しようとした」
「ここにもアイスがついてたから」
「……お前……」
言葉が継げなくなっている俺に、にやりと笑いかけてくる緑。
「嘘だよ。やりたかったのは、おにいちゃんが、雷としてるコト」
冗談ではなく、息が詰まった。
「な……」
にんまりと笑う緑は、女の顔をしていた。
「だって、普段は澄ましてるおにーちゃんがあんなコエ出すんでしょ? どんなカオしてるのかみたいなぁ」
耳に直接囁かれ、怒りにカッと身体が熱くなる。
唇が近づいてくる。
そんな体力ないはずなのに、持っているアイスが凍り出す。
冷静になろうと息を吸った時、パッと緑の身体が離れた。
次いで、玄関から物音。
「ただいまー」
噂の渦中の人、雷だった。
「……早かったな」
声は掠れていなかっただろうか。
「ああ、何か予定が違ったみたいでさ。何でだろうな」
そう言ってちらりと緑の方をみる。
視線を追ってみると、緑はびっくりしたような顔をしていた。
「ええ~うそぉ、ごめんなさぁい、間違っちゃったかな?」
「別にいいけど」
「本当にごめんなさぁい」
しゅんと萎れてみせる緑に、女は怖いなぁ……としみじみ思っていると、雷に左手首を掴まれた。
「うまそうなもん食ってんじゃん」
これの存在を忘れていた。僅かに凍ったとはいえ、手首から肘までべたべただ。
「やるよ」
腕を差し出すと、不意に剣呑な雰囲気に。
「そ、あんがと」
突っ慳貪にそう言いアイスを俺の手から奪い取り、べろりと手の平を舐められた。
もういやだ、ここの人達……。
言葉は無力ね。
伝えたい言葉は、こんなにも伝わらない。
きらきら輝くイチゴののったショートケーキ。
たっぷりの生クリームで飾られた、ふわふわのシフォンケーキ。
つやつやしたチョコレートとつんとブランデーが香るオペラ。
宝石箱みたいなフルーツがたっぷりのったタルト。
そして、モンブラン。
甘いのになぜかしら。涙が出るのは。
「ぼくは行けないよ」
そう言った、凛とした表情を今でもよく思い出す。
「どうしたの、ダヤン」
僅かに首を傾げる彼に、ううん、とにっこり笑って返す。
彼の淹れてくれた紅茶はいつもとっても美味しい。
ぼくの気分に合わせて配合を変えて、いつもぼくがとびっきり美味しい! と思うような紅茶にしてくれる。
“いつも”のジタンだ。何も変わっちゃいない。
でも、何か違和感がつきまとうんだ。
あっちにこっちにぐるぐる回って虫食い穴に吸い込まれながら、瞳だけは必死に開いて彼の姿を見つめていた。
叩きつける風のせいで目が乾いて涙が出た。
彼の姿がじんわり潤む。
その時に見た彼の笑顔が、目に焼き付いて離れない。
目の前で困ったように微笑むジタンに顔を見られたくなくて、紅茶を冷ますフリをして視線を逃す。
聡いジタンのことだから、ぼくの違和感にも気付いていると思う。でも、何も言わない。
それがまたぼくを困らせる。
ねえ。
いつもみたいに「どうしたんだい、ダヤン」って聞いて。
でも同時に、聞かれることが怖い。
あまり話をせずにジタンの家を辞した。
寂しそうなジタンを見ていられなくて、バレバレの笑顔で手を振って走り出す。
なんでだろう。
なんで今まで通りにいかないんだろう。
ぼくは一体どうしたんだろう?
答えは分かってる。
君に見せたかった。
本当はわかっていたんだ。
だけど、鵜呑みにした。フリをした。
だって、お日様を見せてあげたかったから。
君が製造されたのは、世界が闇に覆われてしまってからだった。
本来ならば世界がこんなことになってるんだから、その計画は頓挫してしまうはずだった。
だけど、彼らは君をこの世に送り出してくれた。
どうせ全部壊れてしまうのにどうして? って尋ねたら、笑って答えた。
最後だから、悔いのないようにしよう。
技術者達の計らいか、君に感情は与えられなかった。
僕たちはほっとした。
はずだった。
奇跡か、喜劇か、悲劇か。
あるとき、君は空を見上げて呟いた。
「私、お日様が見てみたい」
感情を持たないはずの人形は、“望み”なんて口にするはずない。
君は与えられなかった感情を、持ってしまった。
それはこんな時でなければ奇跡。
神様はいじわるだ。
なんて悲劇。
その計画を聞いた時、誰もが期待した。
もしかしたら助かるんじゃないか。
だけど、僕たちには分かった。
ほぼ、無理だって。
でも僅かな可能性に賭けた。
そして僕が志願した。
だって、お日様を見せてあげたかったから。
片道分の燃料。
爆薬。
1週間分のエネルギー。
めーちゃんの、ミクの、リンの、レンの、涙。
みんなの泣きそうな、申し訳なさそうな顔。
それを積み込んだ無骨な機械は空を裂いて飛ぶ。
暗闇の恐怖は、今まで教えて貰った歌で慰めた。
ひとりぼっちの恐怖は、写真をコックピットに貼って見つめることで慰めた。
自分が壊れてしまう恐怖は、まだ来ない。
だけど、きっと、その時が来たら僕は微笑むだろう。
写真を、みんなの写った写真を見つめて。
君たちにお日様を見せてあげられるといいな。
何十年ぶりかな。もしかしたら何百年ぶりかもしれない。
僕は先に行くね。
うまくいったとしても、いかなかったとしても、きっとみんながやってくるのはすぐだ。
ああ、でも君だけは来られないかな。
感情を持たない人形に、魂はないものね。
でもカイトは気付いてたよ!
爽やかに見せかけて腹黒いカイトだよ!
「まだだよー♪」
楽しげな笑い声と共に、大地の胸元目がけて刃物のような物が一直線に飛んできた。
すんでのところで躱し、それが刃物ではなく草だと知る。
頭の中で警告が鳴り響き、それに従い飛び退くと体勢を立て直す間もなく第2波が飛んでくるところだった。
こちらはほとんど抵抗出来ないのに、向こうは本気だ。
本気で殺そうと、いや、なぶり殺しにしようとしている。
「あははは、おにーちゃん反射神経いいね!」
楽しそうに笑いやがって……。
小高い丘の上でちょこんとしゃがみながら、逃げられないこちらを睥睨する少女。
緑だ。
目覚めると何故か小高い丘に囲まれた、ちょっとした運動場くらいの大きさの敷地にいた。
とんでもない殺気に飛び退き元を辿ると、麗しい妹がいたというわけだ。
「何がしたいんだ」
無様なことに息が上がってしまっている。しょうがない……何か薬でも使われたのか、言うことを聞かない身体を無理矢理酷使しているのだ。
「別に、おにーちゃんと遊んでるだけだよ」
「ならもうギブアップしたいんだけど。死にそうだし」
「まだあたし本気じゃないよぉ! そんな大袈裟な!」
意味がわからん。
本気で意味がわからん。
じゃあなんだこの濃厚な殺気は。
油断した隙を突かれたのか、背後から迫り来る攻撃を避け損ね右腕の二の腕あたりがすっぱり切れた。
神経まではいってない。かすり傷程度だと思えない事もないが、心が折れそうだ。
来ていたライトブラウンのカットソーがどす赤く染まっていく。高かったのに。
左手で止血しながら、風を巻き起こす。
土を跳ね上げ姿を隠す。
小刻みに移動して場所を特定されないようにしながら、泣く泣く服を裂いて止血。
緑の位置は、気持ち悪いくらいはっきりと特定できる。
だけど、攻撃なんて出来ず、威嚇すら出来ず、ただ逃げ惑うのみだ。
無作為に飛び回る草は脚や胴体を掠る。徐々に細かな傷が増えて行く。
「……何なんだよ……」
思わず、喉の奥から呻き声と共に声が出た。
声に出すと、感情が揺さぶられた。
こういった、生きるか死ぬかみたいな緊迫した場面ではあってはならないことだが、俺は、何かもうどうでもよくなった。
立ち止まって足を踏ん張り、土埃を起こしている風を押さえる。
「何なんだよ!!」
あらん限りの大声で叫んだ。
いくつもの草が身体を切り裂くがどうでもいい。
じくじくとした痛みと、血が流れた事で寒気がする。
撹拌されていた空気が落ち着き、緑の姿がうっすらと見え始める。
「わけわかんねぇよ!」
その緑に叩きつけるように怒鳴る。
びっくりしたように目を見開いた緑は、年相応に見えた。