桜が咲き乱れる。
見たこともない。
闇夜に映える鬱蒼とした紅は全てを覆い、あまりの圧迫感に眩暈がする。
その幹に左手をつき空を仰ぎ見ると、むせ返る花弁で、視界が埋まる。
「ああ」
ため息のような声が漏れた。
美し過ぎる桜に畏怖の念を抱く。
その美しさは、風前の灯火故のもの。
「お前も一緒に逝ってくれるのだな」
植物にも魂があるのであれば、その魂を燃やして咲き乱れている。
狂ったような桜に可憐な印象はなく、心をざわめかせる。
今はそのざわめきすら、遠い。
手足の指先が痺れた様に冷え切っている。
呼吸をすると肺がきしむ。
この身体にもついに、限界がきた。
400年以上の年月は肉体を徐々に蝕み、ついに魂の容れ物としての機能を果たせなくなった。
視界がぼやけて歪み、膝と右手にゴツゴツとした感覚。
体重を支えることも出来なくなった。
左のこめかみを幹に預け、目を閉じる。
「お兄ちゃん!!」
風が揺らす木々の音の中から、君の声。
桜もその狂気を抑え込んだかのように穏やかになる。
君の名を呼ぼうとするが、乾いた唇が震えるだけだった。
「おにいちゃ……」
もうほとんど何も写らない瞳を必死で凝らし、君の姿を探す。
こんな姿、見せたくない。見せたくないのだが、最期に君に会えて良かった。
「ありがとう……ありがとう、本当にありがとう……」
頬に触れた柔らかさはきっと、君の掌。
君の涙を拭いたくて左手を幹から放すが、耐えきれずに地に落ちた。
あまりの情けなさに自虐的な笑みを浮かべたいのだが、きっともう表情も動くまい。
「逝かないで……一人にしないで」
君は一人じゃない、仲間がいる。俺なんかいなくなっても、きっとあいつらが君の傷を癒してくれる。
昔はこんな風じゃなかった。
今は頼っても良い仲間がいる。
こんなに穏やかな死は初めてだ。
君と、そして仲間といたのは俺が生きてきた中ではほんの一瞬だが、素晴らしい煌めきを放っていた。
本当に、良かった。
筋肉を必死で動かし、笑みをつくる。うまくいくだろうか。
耳の中に水でも入ったように、君の声が遠ざかる。
本当に最期か。
なかなかいい人生だったな。
願うのは、君がもうちょっとだけ泣いてくれることだけだ。
さようなら、また君に会えればその時は。
返ってきたのは……胡乱な眼差し。
その底にやっぱり怯えが見え隠れし、もうどうしていいのか分からなくなる。
駄目だ。諦めたら駄目だ。
氷河は何も言わずずっと側にいてくれたんだから。
「……駄目、かな。その、やる気がないならないでいいんだけど、でも、」
ああ、駄目だ、何を言ってるのか分からん。
無駄にもぞもぞしてしまい、氷河の顔を見られない。
「……どういう風の吹き回しだ?」
警戒心剝き出しですねー。
しょうがない! 恨むんなら自分を恨め!
氷河の顔が泣きそうに見えて、俺が泣きそう。
「氷河と、ちゃんとした関係になりたい」
乱れのない自分のワンピースと、はだけた氷河のシャツ。
私がなりたい関係はこんなんじゃない。
無理矢理引きずり出さずに、見える物を見て見えない物を察していかなきゃいけない。
そして私も、さらけ出さなきゃいけない。
サボりすぎたんだ、私が。甘えてたんだ。
「ちゃんとしたって何?」
声が、初めて怒気が孕んだ。
「雷が何言ってるか意味わかんねぇんだけど。炎に何か吹き込まれたのか? それとも何? こないだの事未だに怒ってて難癖つけてきてんのか?」
今にも立ち上がって、部屋を出て行ってしまいそう。
こんな氷河のリアクションは初めてだ。ちょっと本気で逃げたくなったけど、ぐっと抑える。
いつもと違うリアクションだってことは、それだけこちらの様子がいつもと違うってことで、ええと、ごめんよく分からんけど、とにかく好転させてみせる。
「待って、話を聞いて」
この前の事は、そりゃ怒ってるよ。でももう仕方ない。
Hの途中だった事を思い出し、とりあえず距離を置いて座る。これ以上ないというくらい真剣に、まっすぐ見つめると一応聞く姿勢になってくれた。が、まだ視線はこちらを見ない、頑なな態度だ。
「この前の事は、その、確かに炎の野郎殺してやるとか、許した氷河にも今は口に出せないような思いも勿論あったよ。でも、違うんだ」
涙腺が熱い。
「わ、私が全部悪いんだ……私が、氷河を追い詰めたから、だから炎は氷河を心配してあんなこと……」
喉に詰まった涙を飲み込む。
いつも通りの言葉なのに、何なんだろう、この違いは。
電流は極力抑え、きっと物足りないだろうくらいの強さにする。
蕩けきった瞳に理性はわずかしかなく、唇からは甘い吐息が漏れる。
愛おしくて愛おしくて、宝物に触れるように髪を撫でると、びっくりしたような顔をした。
「な、にが……何が?」
息が荒いため言葉になっていないが、言わんとしてることは分かる。何でいつもみたいに酷くしないのかと聞きたいんだろう。
もう、私にはそんなこと出来ないのに。
「氷河、好きだよ」
耳元で、精一杯の思いを込めて囁く。
熱い息に身を震わせた氷河が、困ったようにこちらを見やる。
「大好きだよ。大好き」
そのまますっと手をつなぐと、びくっと身体が跳ねた。
表情に浮かぶ……怯え。
心が軋む。好きな人にこんな顔をさせてしまう自分に、本当に悲しくなる。
気付かなかったふりをしながら、固まってしまった腕を撫でる。
今まできちん見たことなかったけど、結構しっかりとした手首。
ほっそりしている腕は、それでもきちんと筋張っていてしなやかな筋肉を感じさせる。
そうか、病気ばっかりして発育が遅いだけで、ちゃんと男なんだ。
手の甲にキスをすると、ふっと力を抜いた。
今まで押さえつけることしかしなかった、せめてもの贖罪に何度もキスを落とす。
戸惑ったように揺れながらも、怯えは依然消えていない。
あ、そうか。俺が攻めちゃうから駄目なのか。
降ってわいたような思いつきを、早速実行することにした。
不思議と、恐怖心はなかった。
……が、ものすごい羞恥はあった。
「えっと……」
そっと手を放して正座してみる。何故か。
「?」
理性を取り戻した(相変わらず冷めるのは早い)氷河も座り直す。
はだけたシャツとか、乱れたボトムとか、そのボトムの隙間からちらちら見えるものとかはすごく目の毒で、一瞬押し倒してぐちゃぐちゃにしたい衝動に駆られながらも必死で嗜虐心を押し込める。今は絶対に駄目だ。
「あの……」
顔が真っ赤になるのが分かる。緊張して喉がカラカラだ。
「す……好きにしていいから」
なんて言い草だ。発情して押し倒したのはこっちのくせに。
「……………はい?」
案の定、ぽかーんとした氷河から返ってきたのは一言だけ。
ほ、他に言い様はないのか自分。
「じゃなくて……」
「何、疲れたの?」
声までもう戻ってる……! あんなに時間をかけて解かしたのに!! もう素なの!? 早くない!?
じゃなくて。
「疲れたとはどういう意味でしょうか」
聞きたくない言葉が出てきそうで、顔を上げられない。今まで自分がしてきた仕打ちを思い出すと、好意的な言葉が返ってくるとは思えない。
「? 俺に勝手に動けって言ってるのかと思ったんだけど……」
照れもせず、嫌味でもなく、突き放した言い方をされた。
心臓がずきずきする。
駄目だ、これくらいで傷ついてちゃ。
失った信頼は取り戻すのに時間がかかるものだ。
「その、氷河とちゃんとしたセックスがしたい」
言えた。
「大丈夫よ」
精一杯微笑む。
「怖くないわ。私では貴方を消すことはできないもの」
それは本当の事。本気を出せば二人とも消える。
もう貴方は小さな子どもじゃない。
ニンゲンの力は恐ろしい。あんなに小さかった貴方の凄まじいパワーを引き出した。
でも貴方の心は、まだ小さな子どものまぁんま。
「うるさい。怖がってなんかない」
「……ごめんなさい」
どうすれば貴方の心に触れられる?
思わず途中で口ごもる。
玄関口には基子のローファーと、ここ最近見慣れた男物のスニーカー。
またあいつか……基子に変な事してたら承知しねえぞ。
「あ、お兄ちゃんおかえり」
楽しげ?な感じで話していた二人がこちらを向く。
笑顔だ。
あいつもめっちゃ笑顔だ。
「おにーさんおかえりなさーい!」
何でそんなにキラキラした笑顔なんだ。北原。
「なにしてんの」
「もー何でお兄ちゃんいきなり機嫌悪いのよ……」
兄はお前が心配なのよ。
と、思っていたのだけど、いつの間にこういう状況になっているのだろうか。
頭がふわふわする。
「……なに……?」
ソファで蹲る俺にのし掛かる北原。
何か、鼻息荒いんですけど。
「いや、体調悪そうだけどどうしたのかなって」
近い。
近すぎる。
こういうのを密着というのではないだろうか。
「……大丈夫だから」
「お兄さんお酒弱いんですか?」
……。
驚いて目を上げると、嫌な笑いを浮かべた北原がなにやら瓶を持っている。
赤い服を着た、長い棒を持った男の絵。
見るからに酒っぽいんですけど……。