兄貴のために、俺は生きると決めた。
そんな想いは、気づけば胸を焦がす恋になっていた。
「ねえ、車出してくれるでしょ??」
上目遣いと乳アピール。
ちょっと恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、「よく発育したねえ」なんておっさんかあんたは。
まあそんなおっさん発言も照れ故だって分かってるから許したげよう。
兄貴は、俺のワガママを怒らない。怒るという意識なんて、一切ないみたいだ。
困るか快諾するか無理矢理やってくれようとするか、この3つのどれかだ。
それを分かってて、ワガママ言って構ってもらってるのだけど……。
「雷、大地困ってるんじゃないか」
ひんやりとした声が俺の思考を冷ます。
「氷河、困ってはないよ、ありがとう」
わずかに苦笑を浮かべた兄貴は、そのまま俺の方をみた。
「でもごめんな。今日は零が来るから……」
ぴしり。
冗談抜きで俺の意識は固まった。
零。
零。
最近この半陰陽のせいで兄貴が俺に構わなくなった。
理由は痛いほど分かってる。
兄貴が、零に恋をしたからだ。恋をするものが持つ熱い瞳になったことはすぐに気づいた。
俺は愕然とした。
元々淡泊な人だから、俺の想いも気がつかないのだろうと粘ってきたのに、ある日を境に兄貴の瞳は零に吸い寄せられた。
片思いでもつらいのに、もっと最悪な事が起こっているのだ。
「ごめんください」
玄関から、氷河に負けず劣らず温度のない声が聞こえる。
ぱっと兄貴の目が輝いた。
今にも尻尾を振りそうな勢いで立ち上がると同時に、氷河に先導された(イヤになるほど気が利く弟だこと)零が姿を見せた。
漆黒の髪に黒曜石の瞳。真っ白な肌に鮮やかなターコイズ色のセーターが映える。
黒いデニムのミニスカートが何かやらしく見えそうなのに、本人にあまり色気がないせいか嫌味なくらい似合っている。
「いらっしゃい」
「お待たせしました」
「ううん、別に待ってないよ」
そんなとろけそうな笑顔を見せないで。
そんな熱っぽい視線を向けないで。
悲鳴は胸に押し込められたまま、涙は笑顔の仮面で綺麗に見えなくなる。
ま、お二人はそんな俺には気がつかないだろう。
普段はあまり感情を灯さない零の瞳が、少し潤んでいるように見えるのは気のせいじゃない。
そう。最悪な事態だ。
二人は思い合っているのだ。
まだ決定的な事にはなっていないが、遅かれ早かれそうなるであろうことは明らか。
そのまま談笑を始めちゃったものだから、俺は宙ぶらりんなまま放っておかれることになる。
まるで仲間はずれにされた小学生みたいだ。
胸がぎゅっと誰かに掴まれてるみたい。
どうしよう、部屋から出て行きたいかも。でも出て行けない。兄貴を見ていたい。兄貴の側から離れたくない。
たとえそれが自分を傷つけるとしても。
どうしようもなくて立ち尽くす俺を、透明な声が引き戻した。
「雷、買い物行くけど何かいる? それか一緒に行く?」
氷河が鍵をちゃらちゃら言わせながら、扉のところでこちらを見ている。
「ええー……だってチャリだろ?」
「人の愛車を馬鹿にするなんて最低だ」
ぷくっとほっぺたを膨らませた顔が可愛くて、思わず笑ってしまう。
「じゃあ俺が運転してやるよ」
鍵を奪おうとすると、さっと隠された。
「いやだ。雷の運転めちゃくちゃ荒い」
んべ、と子どものように舌を出し駆け出す氷河。
氷河を追いかけるそのどさくさに部屋を飛び出し、後ろを見ずに扉を閉めた。
その後もずっと、思い出さなかった。
「腹減った」
不意に真面目な顔をして何を言うかと思ったらこの言葉。
さっきまでふたりでやいのやいの言いながら秋物を選んでいたのだが、荷物を抱えて店を出るとふっと会話が途切れたのだ。
着せ替え人形よろしくとっかえひっかえ服を着替えたから疲れたのかと顔を覗き込むと、思いの外深刻な瞳とかち合った。
そんな氷河の顔を見たことなかったものだから、思わず息を呑むと我に返ったように顔を上げ、再び少し深刻な顔になり上記発言。
し、心配して損した。
「マクド? それともちゃんと食う?」
「テリヤキ食いたい」
「あれ、チキンタツタじゃねえの?」
「飽きた」
何だかんだいいながらフードコートに移動し、人心地着く。
ごそごそ紙袋と格闘していると、空いていたのかあっさりと氷河がトレイを持って帰ってきた。
「はい」
「ありがと」
周りは高校生のカップルや親子連ればかり。
俺たちももしかしたらカップルに見えてるのかも。
なんて思ってしまうのは、今更になってやっと兄貴達の事を思い出したからだ。
残酷なくらい絵になる二人。
そこに俺の入る余地はない。
否、きっと、俺がワガママ言って擦り寄って、行かないでって泣いて喚けば形だけでも繋ぎ止められる。
兄貴は、優しいから。
零は、そんな兄貴が好きだから。
二人ともオトナだから。
でもそれはきっと仮初めのものなんだろう。それじゃただの肯んぜない子どもだ。兄貴の心は捉えられない。
ああ、でもそれでもいいかもしれない。それで致命傷を逃れられるのならば。
「雷、何かあった?」
心配そうな顔が思いの外近くにあり、思わず身を引いた。
すでに氷河はハンバーガーを食べ終わっており、コーラとポテトをだらだら摘んでいる。
「あ……ごめん」
それ以外になんと言えばいいのか。
俺の手元には、ほとんど減っていないビックマックが。やばい。ぼんやりしすぎた。
人が反省してる間に、氷河の顔がひょいっと近づいてくる。
息がかかりそうなほど近くに来た整った綺麗な顔に、思わず心臓が跳ね上がった。
睫毛長いなぁとか、瞳の虹彩に混じる複雑な青色から目が離せない。
跳ね上がった心臓が更に弾け出す。
が、そんな人の内臓事情は知らず、綺麗な顔がふいに下降したかと思うと胸の前あたりで握っていたビックマックが3分の1ほど削られた。
怒ろうと息を吸い込んだ瞬間、伏し目がちに顔を上げた氷河がにやりと笑った。
「ゴチソウサマ」
口の端に付着したケチャップを指先で拭い、それを舐め取る赤い舌に息が詰まった。
身体は女だけど思考は男に近い。というかぶっちゃけ、性的な方面では特に男に近くなる。
うわーやべー超色っぺー。ってかなんだよゴチソウサマって。ちょっとクるじゃねぇか。
などと自分の弟(厳密には血は繋がってないが)を見て思ってしまった。なんかごめん。
「テメェこの野郎人が反省してるスキに!」
なんて小突きながらも、ちょっとどきどきしてしまった。
「だって雷、何か悩んでるみたいだったから」
小突かれた勢いでちょっとくすぐったそうに目元を緩めながら、目の光り方だけは妙に真剣になった。
「大地兄!」
鋭い氷河の声が警笛のように耳に飛び込んできた。
次の瞬間、目の前に氷の壁が出現する。
ひやりとした空気を感じる間もなく、その壁の後ろから全力で飛び出し目の前の白衣を着た研究者を打ち据えた。
あっけなく気を失って倒れた研究者を目の端で捉えつつ、ぐるっと周りを見渡すと壁際に追い詰められた緑と、研究者の投げた火炎瓶が氷の壁にぶつかって落ちるのが見えた。
割れた火炎瓶の火が絨毯に着火するかと思ったが、ふ、と火は何事もなかったかのように消え去る。にんまり笑う炎ににっこり笑いかけ、絨毯に手を付く。いつもはふわふわしている絨毯が今日は大勢に蹂躙されぺしゃんこだ。
「緑!」
叫ぶと同時に、まっすぐ緑に向かって亀裂の入る絨毯。
緑を追い詰めていた研究者が必死の形相で逃げ出す。その隙に緑は高らかに舞い上がり難を逃れた。
「ありがとう!」
鈴や風鈴を思わせる凛とした声を右頬に受け止めながら、肉薄してくる研究者を真正面から蹴り飛ばす。
さっきの亀裂に引っかかり無様に転がるのを見て、炎が声を上げて笑った。
「ちょっとぉ! 僕も引っかかるかもしれないから、あんまり罠張らないでよ-!?」
炎の軽口を聞き流しつつ、氷河の隣に並ぶ。
ずっと気になっているのだが、顔色が悪い。すでに肩で息をしているし、前髪の生え際にあるふわふわした産毛に汗が光っている。
「氷河は後方へ」
低く言い放つと、弾かれたように氷河が顔を上げた。
目に怒気が瞬いている。
それでも口をぎゅっと結んで何も言わないのは、自分の状況が分かっているからだろう。聡い子だ。
短く息を吐くと、スッと後ろに下がる。
それを待ちかねていたように、前方の扉が音を立てて開き、良く見知った人物が姿を現した。
「……グロウ」
炎の呻くような低い呟きに、緑の小さな悲鳴が重なる。
「何でグロウが……!」
彼は全く感情を見せないまま、無表情に構えた。
「気づかないテメェが悪ぃんだろうが」
朝っぱらから剣呑な雰囲気になっているのは、我が家の紅白コンビだ。
毎日毎日毎日毎日飽きもせず、何かと些細な原因を見つけてはちょこちょこ小競り合いが勃発している。
むしろ趣味の範囲なんじゃないのか。放っておいた方がいいんじゃないのか。
そういう達観は、自分の飲もうとしていた湯気の立っていたはずの珈琲がかちんこちんに凍っていたり、逆にマグマの如く煮えたぎっていたり、新聞が発火したり、釘が打てそうな硬さになっていたり、飼っている金魚のめーちゃんが死にそうな顔でこっちに水の温度をアピール(もちろん煮魚や氷になることを恐れてだ)してくる事によってぶち壊される。
「二人とも」
声をかけると一瞬こちらを見る碧、気づかない赤。
ぴりぴりした空気は相変わらずだが、常に冷静な氷河が若干気後れした。
そしてこちらに気づかないくらいヒートアップしている炎が、それを見逃すはずない。
「いちいち起こしにくんなっていっつも言ってるでしょ? 何でわざわざ毎朝繰り返すの? 嫌がらせ?」
氷河の理性にヒビが入った音が聞こえた。気がした。
「減らず口くらいしか叩けないのかお前は」
絶対零度の視線と声の温度で言い放つ。
「氷河、炎」
今度は名指しで。
「大地兄は口出さないで」
怖。
名の通り、烈しい瞳で押し返された。
どうしてこの子はこんなに喧嘩っ早いのかね。
そんな事言ったら怖い人が来るのに。
「誰に対して物言ってんだ?」
すぐさま、確実に怒気を含んだ声が頭上から響いた。
まっ金金としか言いようのない派手な金髪に、金褐色の瞳。
「雷!」
「暑苦しいんだよ毎朝毎朝。ぎゃーぎゃー噛み付くしか脳がねぇんならせめて自力で起きろアホ」
たるそうに紫煙を漂わせる(室内禁煙だって約束したはずだが)雷は、面倒くさそうに手すりを飛び越え、炎の目の前に華麗に着地した。
「で、どの口かな? 敬愛するお兄様に命令したのは」
笑ってない。目が笑ってない。
スパークする火花が見える。
氷河は早くも逃走の準備を整え、速やかに舞台からフェードアウトしている。
「言葉の綾です」
直立不動の姿勢のまま、雷から微妙に視線を逸らした炎が目で必死で謝罪してくる。
“ごめんなさい助けてください!!”
しょうがない。
「はいはい、雷ありがとう。俺はあんまり気にしてないからその物騒な目つきをやめようねー」
「だってぇ……」
雷は迫力美人なのだが、服の趣味はロックだ。
今もぴったりとした革のジャケットから、豊満な胸がこぼれそうに……いかん、視線がおっさんだ。
そんな美人に上目遣いされて甘くならない男がいるだろうか。いや、いない!
というわけで雷に甘い俺は悪くない。自己弁護終わり!
「兄貴ぃ今日はどっか行かないの-?」
ソファの背もたれにくっついた雷が甘えた声を出す。
「ん? どこ行きたい?」
「んー、そろそろ秋物が出る頃だからブーツみたいなぁ。こないだギンガムチェックのミニスカ買ったんだ。それに合うの探したいの」
すんなりした脚を包む乗馬ブーツ、真っ白い太もも、くすんだ赤色のギンガムチェックのプリーツスカート=絶対領域!!
「よし行こうすぐ行こうどこに行こう」
「わあーい!」
きゃっきゃしてる兄姉を見て毒気を抜かれたのか、学生二人はやっと椅子に座り食事を取りだした。
険悪なムードは相変わらずだが、氷河がたまにちらちらとこちらの様子を伺ってくるのが可愛い。
「ねー兄貴ー車出してくれるー?」
ソファで珈琲を飲みながらだらだらする年長組。
ぴりぴりした空気のまま、朝食中の弟組。
なんだか異様な光景だが、基本的にいつもこんな感じなので誰も気にしない。
ほの暗い部屋の中でぼんやり光る大きな円錐状のガラス。その中に満たされた液体。
浮かぶ、白い裸体。
ぷしゅ、とあっけない破裂音を立てて扉が開き、白衣の男性が歩み寄る。
「氷河」
彼は、そのまるで死体のような身体に向かって声をかけた。
「氷河起きろ」
わずかな身じろぎと共に目を覚ます、不健康なほど蒼白い肌と、銀色の髪を持つ……青年と呼ぶには幼いがすでに少年期は過ぎてしまっているであろう、彼。
「今日は双子の“弟”をつれてきた。会うか?」
特に氷河は動きを見せなかったが、問いかけた張本人はさっさと後ろを向き、その弟やらを呼びつける。
「おにいちゃんハジメマシテ」
姿を現したのは、燃えるような髪をした同い年くらいの少年だった。
「“炎”だ」
えん。炎。氷河は口の中だけで音をなぞり、脳裏で正確に漢字を当てはめてみせた。
「よろしくね」
半袖から覗く、ほどよく日焼けしてしっかりと筋肉質な腕。
ゆるやかにウェーブを描く、つやつやした真っ赤な髪。
にこにこ笑う、真夏の太陽のような瞳。
……ああ。
だから、“双子の弟”か。
突然、双子の“兄”に会うよう言われた。
まだ会ってなかったから一も二もなく頷いたけど、ふと不安になる。
「おにいちゃんって今どんな状況なの?」
聞いたのは、未だにうっかり外に出ると死にそうだという点だけであった。1週してどうでも良くなった。
間抜けな音を立てる扉も今日は気にならない。
どきどきしながら暗い部屋に入ると、思いの外健康的な青年がぷかぷか浮かんでいた。
真っ白な肌に銀糸のような髪。
なめらかな腕のほっそりした曲線が痛々しい。
開かれた瞳は真冬の海を想像させる、凍えそうな碧。
2,3度瞬きしてまっすぐ見つめてくる瞳がわずかに笑みを刷いたのに気づき、ほっとする。
お互いが好印象だったのはここまでだ。
武道には通じています。そりゃそうでしょう。父親が傭兵上がりのオタクなんですから。
小さい頃は「頑張れば出来る!」なんて無茶を言われて叩き込まれました。
母は私が3歳の時に流行病で。
でも、まだまだ肯んぜない子どもですよ?
友達とも遊びたいし、まだまだ親に甘えたい。
それを、何が嬉しくて。
でも、あなただから。
あなただから志願しました。
『できないと言えばベソをかかれ』
その古い宿に入った頃には、すでに時計は23時を指していました。
「……」
「……」
二人とも、疲れて無言。
それでも従者のユシャは何とか身体を動かし、台所でお湯をもらうと主の為に布を絞り始めました。
「はい、こちらで顔をお拭き下さい」
ユシャの浅黒い肌は砂にまみれ、いつもはつややかな黒い髪も色が変わっています。
「どうして今日中に討伐に行かなかったの」
金髪碧眼の美少年が、こちらもユシャほどではないものの砂にまみれた顔を不満そうに歪めて不平を漏らします。
布を受け取り乱暴に肌を擦りながら、言い募ろうと口を開きますが。
「一日歩きづめで疲れたからです」
察したユシャが先手を打ちました。
「僕は大丈夫!」
「ご自分の顔を鏡でご覧下さい。ひどい顔色ですよ」
これでもユシャは精一杯抑えました。
砂丘に足を取られたり、猛毒を持った蜘蛛がいたり。そんな中王子様をずっと守ってきたユシャの疲労は王子様の比ではなく、今すぐにでも布団に入りたいのです。
それでも最大限の自制心で穏やかに答えます。